「お願いだから、もう私を解放してちょうだい」



 私がそんなことを言えば、男は決まってニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべ、ナイフをゆっくりと首元に当てる。いつもと同じく、私の首元ではなく彼自身の首元に。


「おいおい、そんなことを言って大丈夫か? 手元がくるって、自殺しちまうかもしれねえぞ。俺の命は軽いが、あんたはそうじゃないだろう」


 男がナイフを動かすと首の皮が裂け、一筋の血が流れ落ちていく。すると同期されているかのように私の首にも鮮烈な痛みが走り、赤い液体が滴っていく。いつものように、私は怯えながらその血を拭いながら彼を止める。



「分かったわよ、あなたの言う通りにするから、そのナイフをしまってちょうだい」

 


 男は私が屈服したことに満足したのか、鼻で笑うと、天を見上げる。


「あの神様に感謝しなきゃな。こうやって、俺とお前を結び付けてくれるなんてな」


 男のその言葉を耳にして、私は下を向き、唇を強く噛んだ。



 この最悪の生活が始まったあの日のことを、何度思い出したか分からない。日々の仕事に疲れていた私は、気分転換のために近所の山へと足を運んだ。前日の雨で地面がぬかるんでいたのか、中腹で足を滑らせ、池へと落ちてしまった。ふと目が覚めると横には見知らぬ男がおり、目の前には仙人のイメージをそのまま形にしたような老人がいた。老人は咳払いをすると、重い口を開いた。


「ワシはこの池の神だ。ワシの勘によれば、お前達は、喧嘩の絶えない夫婦といったところだろう。まあ、よくある話だ。互いの痛みを分かち合えれば、心のすれ違いもなくなるはずだ。一心同体、痛みを共有するのだ」


 私達は夫婦であるどころか、互いの名前すらも知らないような関係だ。とんだ的外れの勘だと思っていると、ある話を思い出した。この山には縁結びの神がおり、喧嘩した夫婦を結びつけるというのだ。よくある作り話の伝説だと思っていたら、実際に目の前に現れたのだ。彼が手をかざすと私達を光が包む。変なまじないをかけられたのかと思ったが、体に目立った異変はなかった。


 顔を上げると、老人はまるで、かすみのように消えていた。


「ここは天国か……?」


男は目を擦りながら、体を起こした。



「私達、助かったのよ」


 私が見た不思議な光景を説明すると、男は大声で泣き出した。


「俺は自殺するために池に飛び込んだんだ。死に損なったってことじゃないか。俺はこれから、もう一度自殺する。今度こそ、止めないでくれ」


「そういうことであれば、無理には止めないわ」


 冷血だと思われるかもしれないが、そうせざるを得ない理由があった。

 何しろ、今の私は幸せの絶頂にいるのだ。昔からの夢だったネイル店の起業に成功し、これから三店舗目を出そうというところまで漕ぎ着けた。また自分の理想の男性と恋仲になり、婚約にも至ったのだ。この男は不運なことには同情するが、自殺に巻き込まれて自分がけがをしては元も子もない。



 私は少し離れた場所に立ち、男の様子を窺う。男はいきなりナイフを取り出し、刃物の鋭さを確かめるように、手首を軽く切り裂いた。ナイフの刃はよく磨がれているようであり、わずかな力のように見えたが、そこから血液が流れていくのが見えた。

 その瞬間、なぜか鋭い痛みが自分の手首に突き抜けた。目を向けると私の皮膚は裂け、そこからドクドクと赤い液体が流れだしていたのだ。理由が分からないまま、傷跡を見つめた。それはまさに、男が切り裂いた場所と同じであった。

 私が男に目を向けると、まさに意を決してナイフを振り上げていた。何かまずいことが起こりそうだと考えた私は、思わず声を上げた。私の声に驚いたのか、男はその手を止めた。




「なんだ、今更止めないでくれ。会社は倒産し、最愛の恋人には逃げられた。家族だっていやしない」



 男の言葉に、私は首を横に振った。




「そうじゃないのよ。あなたの命だけなら好きにすればいいけれど、私の体がおかしいのよ。あなたが傷つけた場所が、まるで鏡写しみたいに傷つけられたの」


 私が傷口を見せると、男は不思議そうに、それを眺めた。


「なるほど、あんたが言っていた、さっきの神様のまじないのようだな。まるで鏡のように、痛みが共有されるということか」



 男は何かを思いついたように不気味にニヤリと笑う。


「まずは、有り金を全部渡してくれないか」


「なんで、あなたのために、そんなことをしなきゃならないの?」


 私が抗議の声をあげると、男は人差し指を立て、左右に大きく振った。


「いいのか? 俺とお前は一心同体。このままだと、お前さんを道連れに自殺しちまうかもしれないぜ。俺には失うものはないが、あんたはそうじゃないようだろ?」


 男はそう言って、ナイフを自分の首へと押し当てた。私はそれを慌てて止め、それからやっと、男が私にしようとしていることを理解した。この男は、自分自身を人質にしようとしているのだ。




「これからは、俺の言うとおりに動いてもらう。いいな」



 私は、男の言葉に震えながら首を縦に振ることしかできなかった。人質が自分自身であるというのはとても都合が悪い。相手が私を人質にとるというのなら、警察に捕まえてもらったり、殺し屋に依頼したりというのも選択肢に入るかもしれない。


 しかし相手を傷つけることで、こちらが傷つけられるというのは、ずいぶん都合が悪い。しかも、相手に失うものがないのだから、相手の命の価値というものは低くなる。一心同体というが、元から不平等な取引なのだ。


 男の要求はとどまることなく、私はついには、ほとんどの財産を男に渡すことになった。また男と関係のないところで私の不幸は続いた。起業したネイル店は不況のあおりでつぶれ、婚約者は不倫が発覚し縁談は破局になってしまった。幸せの絶頂は消え失せ、私には絶望が訪れた。


 一方、打って変わって、男の方には幸せが訪れた。運試しに買った宝くじは大当たりし、最愛の恋人は戻り両親までも見つかったのだ。男は私の様子を見ながら、皮肉めいた笑みを浮かべた。



「ああ、生きてりゃいいこともあるってもんだな。もっとも、あんたにとってはそうじゃなかったみたいだけどよ」



 男はそう言って笑うと、キッチンの方を指さした。


「おい、祝宴だ。早く俺のために酒と飯を持ってこい」



 私は、男を睨んだ。
 このままの暮らしが続くなら、死んだほうがましだ。



 そう思った時、私はあることを考えついた。私はニヤニヤと、男を見つめた。男は私の様子が不気味だったのか、いつものようにナイフを取り出した。


「なんだ、反抗する気か。もし反抗するのなら・・・・・・」


 男は何度も見たように、ナイフを首元に当てる。しかし今日は、いつもと同じじゃない。



「やってみなさいよ」



 私がそう言うと、男は本気を示すべく、持っていたナイフを自分の首に当てる。しかし手は震えてしまったのか、ナイフはそのまま床に落としてしまう。慌てて手に取ろうとする男より先に、私はそのナイフを手にした。



「あなたもずいぶん、幸せになったようね」



 私は落ちたナイフを今度は私自身の首に当て、私の言葉の意味をやっと理解した男を見つめる。



「これからは、私もあの神様に感謝する日が来るのかしら」



私はそう言いながら、ゆっくりと自分の首の皮膚を裂き、流れる血を愛しく見つめた。

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