ある優秀な科学者がいた。彼女は動物と対話をする技術を研究し、多くの支援者を有していた。一つ一つの命を大事にする愛情を持つことでも知られており、ペットのヤギに牧草を食べさせる姿は科学誌の表紙にもなった。冷静沈着で美人な科学者と能天気で自由なヤギの対比は読者を惹きつけたものだ。
一方で、彼女は一児の母としての顔も有していた。夫に先立たれ、女手一つで息子を育てていた。仕事と家庭の両立は困難であったが、睡眠時間を削ってでも全ての努力を費やした。
しかし、親の心子知らずとでも言うのだろうか。彼女の息子は反抗期をこじらせ、暴力沙汰を繰り返し、盗みを行い、時には母親の金を使い込んで違法な賭けに興じることさえあった。その度に母親に注意されるも、無視を決め込み、ついには家を出て行ってしまった。
そんな中、男は母親に病があることを伝えられ、急いで病院に向かった。病状は著しく進行し、男と母親が再び会いまみえたのは、霊安室の中であった。過労から来るものではなく、先天性のものであったという。彼女の研究がまさに成就しようとした、その時であった。
「ああ、俺はなんという親不孝者なのだろう。母さんの最後の言葉すら聞けなかった」
先立たれた男は、涙ながらに亡き母を思い出してそう言った。すると、一人の医師が男に近づく。
「あなたが手遅れになる前に、お母様は言い残したかったことをまとめていたようです。弁護士から自宅にその遺書を届けるよう手配していたとか」
男はその言葉を聞いて、母親と暮らしていた実家へと走り、ポストの中を見る。しかし、そこには遺書は無い。近くを見ると、そこには美味しそうに何かを食べているペットのヤギの姿があった。
「お前、まさか……」
散り散りになった食べカスを見ると、差出人の欄には男の母親の名前があった。ヤギは能天気にこちらを見ながら別の手紙を食べている。
男の脳裏に、ヤギの胃の中を洗い出して手紙を復元する考えがよぎる。しかし、すぐに頭を振ってイメージをかき消した。胃から復元するには遅すぎるだろうし、動物を愛していた母がそのような行為を望まないことは分かりきっていた。
手遅れになる前に自分に言い残したかったこと。それは、一体何だったのだろう。男はヤギの顔を見る。俺は長い間、この家を離れていた。結局、このヤギは自分よりも長い間、母親のそばにいたことになるだろうか。そう考えた時、男は母親の研究を思い出した。動物と対話する技術だ。母親は独り言を言う癖があった。もしかしたら、このヤギが遺書の内容を覚えているかもしれない。
それから男は、人が変わったように勉学に励んだ。寝る間も惜しみ、当初は周囲からはおかしくなったと思われるほどに研究を続けた。自分が手遅れになってからでは遅いのだ。次第に周りの人間が彼を見る目は変わり、彼に近づくようになった。友人は増え、重なった偶然から妻子を持つことになった。彼は周囲に見守られる中、努力を続けた。全ては遺書を復元するために。
そして五年の歳月が経ち、男の研究はついに身を結んだ。母親が成し得なかった動物と対話できる方法を生み出したのだ。周囲の人間は賞賛し、母親と同じように、男とヤギの姿が動物誌の表紙にもなった。
テレビカメラのレンズが見つめる中、男はヤギに問いかける。
「なあ、覚えているかい? 俺の母さんが残した遺書について」
男が震える声で問いかけると、ヤギは首を傾げた。
「ああ、覚えているさ。しかしもう、全て手遅れだ。今更聞いたって意味の無い内容さ」
機械から流れる合成音声は、無常なヤギの声を翻訳する。
「そんな……」
男は絶望し、周囲の人間もざわつきを見せる。
しかし男は、それでもヤギに告げる。
「それでもいいさ、教えてくれ」
「分かったよ。君の母親は確かこう言いながら、遺書を書いていたね」
ヤギは能天気な顔で答える。
「時間には、限りがあります。誰にも迷惑はかけず、友人を作り、恋人を作り、ただ幸せに暮らしてくれたら私はそれで構いません。心を入れ替えて、幸せに生きてちょうだい。……そんな感じだったかな。どうだい? 今の君に語るには、どうにも遅すぎる言葉だろう?」
男はそれを聞くと感謝と共に泣き出し、会場は拍手の渦に包まれた。
「やっぱり人間っていうのは、意味が分からない生き物だね」
ヤギはそう言い残すと、いつものように牧草を食べ始めた。
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